星座図の話題に関しては、新たに発注をかけたものがあるので、それが届くまでちょっと寝かせておくことにして、先日、石田五郎氏をめぐる記事に頂戴したコメントに触発されたことがあるので、それを先に書きます。
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野尻抱影(1885−1977)、宮沢賢治(1896−1933)、稲垣足穂(1900−1977)。
私はあまり県民性というものを信用していませんが、この3人の作家については、それぞれ関東、東北、関西のローカリティが色濃く表れているような気がしてなりません。
カラコロと着流しで雑踏を往く抱影。
後ろ手を組んで、うつむき加減に野を歩く賢治。
彼らを東京や岩手の景観と切り離して考えることは難しいでしょう。
足穂の場合はちょっと複雑ですが、モダンボーイとして神戸トアロードを闊歩した頃も、宇治の里に住まいし、怪僧じみた風貌で世を諷した晩年も、東京の文化人とは明らかに手触りの異なるオーラを放っていました。
そんな三者三様の「星の文学者」たちですが、彼らは、互いのことをどう思っていたのか?
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このうち、直接顔を合わせたことがあるのは、抱影と足穂だけで、そのことは先日、石田五郎氏の記事でもちらっと書きましたが、改めてちゃんと書いておきます。
抱影と足穂が出会ったのは昭和24年(1949)3月13日、場所は世田谷の抱影宅でのことです。両者を引き合わせたのは、科学ジャーナリストの草下英明氏で、その折の記録としていちばん詳しいのは、同氏の「人間の水はみんなみ、星は北に拱(たんだ)くの…」(初出:『遊』1977年12月臨時増刊号/単行本『星の文学と美術』(れんが書房新社、1982)所収)でしょう。
二人の共通の知人であった草下氏は、対面前の両者の発言として、「野尻先生は「変った人らしいね。ああいう飛躍にはとてもついてゆけない」と言い、イナガキさんは「背中をまっすぐのばした、こわい人のようだ」とお互いを評していた」ことを書き留めています。
3月13日の対面当日、足穂(その頃彼は東京住まいでした)は、草下氏の誘いに応じて気軽に立ち上がったものの、内心は相当緊張していたようです。彼は抱影宅に向かう道中、やたらにおしっこをして、あまつさえ抱影宅の垣根の陰にも放った形跡があった…と、草下氏は余計なことまで書いていますが、五十の声を聞こうという足穂にも、そんなウブな一面があったのかと驚かされます。
(昭和25年ごろの足穂。出典:『稲垣足穂の世界―タルホスコープ』(平凡社)より、一部トリミング)
以下、長文にわたりますが、その対面の状況を活写した草下氏の文章。
「野尻先生の前に出たイナガキさんは、意外にも、全くおずおずと、まるで校長先生の前に立った小学生のようにぎこちなく一言「イ、イナガキです」ぺこりとおじぎをしただけだった。
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