賢治は3人の中ではいちばん早くに亡くなり、今でこそ世間的にいちばん高く評価されていると思いますが、生前は作家として十分認知されていたわけでもなく、将来自分が他の2人と並んで語られることになろうとは、全く予想もしていなかったでしょう。(そもそも賢治は、星座入門書を著した抱影の名は知っていたかもしれませんが、足穂の名を知っていたかどうかは、すこぶる怪しいと思います。)
では抱影と足穂は、賢治のことをどう見ていたか。
まずは抱影編。
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抱影の賢治評として何か公になった文章があるのかどうか、寡聞にして知りません。しかし、石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)を読んでいたら、抱影が私信の中で賢治に触れているのに気が付きました。
昭和28年、草下英明氏がその処女作『宮沢賢治と星』を上梓した際、抱影が同氏に宛てた葉書がそれで、上の本の291−2頁には、その全文が引用されています。以下にその一部を抜粋。
「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであつてはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。
〔…〕吉田源治郎氏との連想はいい発見で十分価値がある。〔…〕賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だつたやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか、「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかつたのだらう。「三目星」も知識が低かつた為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言つてゐる)「庚申さん」はきつと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」
禺画像](左:抱影の処女作『星座巡礼』(大正14年初版、写真は昭和6年の第7版)、
右:賢治に影響を与えた吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』(大正11))
抱影にかかっては賢治も形なしで、「未熟」の一語であっさり片付けられています。
まあ、相手が抱影ならば、賢治もあえて反論できないでしょう。
抱影としては、初歩的なミスを連発する賢治が「星の文学者」として祭り上げられるのを見て、まさに片腹痛い思いだったのかもしれません。
(ちなみに葉書に出てくる「三目星」とは、賢治が詩の中で「三日星」にカシオペアとルビを振っていることを指します。この「三日星」は印刷の際の誤植で、草稿では「三目星」になっていることを草下氏は発見しましたが、三日星にしろ、三目星にしろ、典拠のはっきりしない言い方であることに変わりはなく、抱影はあっさり賢治の無知のせいだと切り捨てています。)
とはいえ、仮に賢治の天文知識が「素人」の域を出ないものだったにせよ、賢治は別に天文啓蒙書を書こうとしたわけではなく、輝くような詩的世界の創造こそが、その身上だったわけですから、その点を抱影はどの程度認めていたのか、気になるところです。
重箱の隅をつつくと、抱影は文中、吉田源治郎のことは「吉田氏」あるいは「吉田源治郎氏」と呼んでいるのに、賢治のことは「賢治氏」と呼んでいます。これは少なくとも相手を文学者として認めていた証拠かもしれません。が、それにしても、あまり高くは買っていなかったのかなあ…と、抱影の口吻からは想像されます(まだ足穂の方を高く買っていたかもしれません)。
(この項つづく。次回は足穂の賢治評)
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