(元記事は3月28日
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S.Uさんから、昨日以下のようなコメントをいただきました。
「稲垣足穂が昭和10年前後の七夕の時期に、ラジオ出演をしたことがあるだろうか?」という問題提起です。これはコメント欄に置いておくと、識者の目に触れずに終わってしまう可能性が高いので、取り急ぎ記事に挙げておきます。
この件については、私自身もちょっと調べてから改めて書き込みをする予定ですが、他の方からもコメント等いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
■□ 以下、S.U氏のコメント再掲 □■
こんにちは。また、こちらにコメントです。
足穂の30代の明石時代の「リアル天文」における「普及活動」についてですが、すでに述べた件について、こちらで調べてもよくわからないというか、取りつくシマもないことがあるので、ぜひ、玉青さん、それから世の学識の方々のお知恵を借りたいと思い、ここに報告をさせていただきます。以下、少し長くなりますが、ご容赦ください。
それは、上(4/8のコメント〔3月28日の記事に4月8日にいただいたコメント―引用者〕)に書いた「稲垣足穂出演のラジオ放送」の件です。「北落師門」という私小説に、主人公「私」の友人「忠郷」の姉という人が出てきて、会話体で、「私」がラジオ出演して「棚機」のころに天文と文学について語る予定である、という話が出てきます。会話体なのでいまひとつ明瞭ではありませんが、他の解釈はできないように思います。
この「私」は足穂で、時期は彼が明石で望遠鏡を買った後の明石在住中ということのようです。昭和10年の可能性が最も高く、昭和9年、11年の可能性もあります。(彼の小説や年譜にはこのへんで1年程度の矛盾があることがあります)
当時のラジオ局としては、日本放送協会大阪放送局(JOBK)(神戸に支所があった)しか考えられないので東京朝日新聞の番組表を見てみましたが、足穂の名前は見つけられていません。七夕前後に特別講義番組がありましたが、足穂の名前は出ていませんでした。でも、別の番組の可能性もあり、また、新聞に載っているのはごく一部の番組だけなので、これだけでは足穂がラジオに出ていないという証拠にはなりません。
当時の足穂は、明石でぶらぶらしているだけのアル中の人だったので日本放送協会から声がかかるかあやしいようにも思いますが、たとえば野尻抱影が『星座巡礼』出版後すぐにラジオ番組のレギュラーになっていることを考えると、すでに星に関するユニークな小説を何編も世に送っていた足穂にもラジオ出演の声がかかる可能性は十分にあったと考えます。足穂が実際の星座を憶え始めたのは昭和7年頃のことでしたが、このころ彼は暇だったので、2〜3年で一通りの星座は憶えていたことでしょう。また、母親や知人に望遠鏡で月を見せたり、星について語ったりしているので、そういう知識を人に広めたいという気持ちは持っていたと思います。野尻抱影の影響もあったでしょう。
それでは、当時の足穂の年譜、ラジオ放送についてご存じのことがありましたらお知らせください。私の根拠の無い勘では、このラジオ出演の件は、まったくの虚構である可能性が2割、話はあったが実行されなかった可能性が5割、実際に出演した可能性が3割くらいではないかと思っています。
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