(今日も字ばっかりです。)
足穂が覗いていたと思われる望遠鏡の同型機はこちら↓
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(3月26日の記事に対するガラクマさんのコメント参照)
彼が望遠鏡を入手したのは、30代半ばに差しかかり、かつてのモダン・ボーイからすっかり落魄の身となった頃。足穂はこの後、明石を引き払って上京し、そこでまた屈折の多い時を過ごしますが、彼はこの望遠鏡をいったい何時まで持ち歩いていたのでしょうか?
作品を丁寧に読んでいけば、分かるのかもしれませんが、ここでは一足飛びに戦後に飛びます。
前回も引用した草下英明氏の『星の文学・美術』には、草下氏が初めて足穂の下宿を訪ねた場面が記されています。
時は昭和23年(1948)11月23日。所は東京戸塚のさるアパート。
当時『子供の科学』の編集部にいた草下氏は、「星に関係ある人」ということで足穂に会いに行き、その場面を以下のように日記に記しました(カッコ内は草下氏による補注)。
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現われたのは、ずんぐり頭の薄い五十がらみのオヤジ、赤いギョロ目、鬼がわらのような顔、よれよれの兵隊服、昼間から酔っているらしく聞きしに勝る怪物。本当にこの人がイナガキタルホなのか?部屋には、聖書とロザリオ、二、三の雑誌。三インチ(八センチ)の反射望遠鏡(借りものだという)と、少しの原稿用紙、机以外は何にもなし。(一カ月後には、原稿用紙と『白昼見』のゲラ刷りだけになって、机も望遠鏡も消えていた)
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ここにも3インチの反射望遠鏡が出てきます。
「借り物」とありますが、いったい誰が貸してくれたんでしょうか?
ひょっとしたら、やっぱりこれは自分の物で、一種の「照れ」からこう説明したんでしょうか?もしそうならば、ほとんど無一物で転々としていた中で、彼は望遠鏡をものすごく大切にしていたことになりますね。でも、だとすると、ひと月後に望遠鏡はどこに消えたのか…?
望遠鏡の正体はともかく、この時期も彼は望遠鏡を手元に置いて、おそらくは実観測もしていたことが伺えます。
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足穂論的には、こうした考証に続けて、彼の望遠鏡体験が、その作品にどのような影響を及ぼしたかを考える必要がありますが、もちろんこのブログでそんな大層なことを論じることはできません。
ただ、1点だけ気付いたことがあります。
今日、足穂を読んでいて、望遠鏡体験の前後で、同一作品でも土星の描写が少し変わっていることに気付きました。それをメモしておきます。
周知のように、足穂は自作に何度も手を入れ、同一作品に数多くのヴァリアントがあることで有名です。中には題名まで変わってしまったものもありますが、以下に掲げるのも、そんな「異名同作品」。
(A)「廿世紀須弥山」(『天体嗜好症』、春陽堂、1928所収)
(B)「螺旋境にて」(河出文庫『宇宙論入門』1986所収;文庫化にあたって底本としたのは、『稲垣足穂大全T』、現代思潮社、1969)
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(A)<1928年バージョン>
「夜の煙突から出たもえがら〔4字傍点〕のやうな色をしたものがボーと現われてゐるぢゃないか。しかもそれをめぐって円いななめになった環まで認められる。」
「そして、おしまひに目の前にやって来た土星はと云ふと、写真では子供の時からお馴染のものゝ実物は実にへんてこな感銘をあたへる、今も云ったスイッチをひねって消した瞬間の電球みたいな色をして、それがブーンブーンと独楽のやうにまはってゐるのだが、名物の環だけはぢいいっと安定を保つやうに静止してゐる。」
(B)<1969年バージョン>
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