序文に出てくる問題の箇所は以下です(改行は引用者。引用にあたって新仮名遣いに改めました)。
「本書は最初の予定では欧文を以て書き綴られるように運ばれていた。そして出来ることならそうした形で出したいものと思い続けて来た。それはかような日本特有の動物群の研究は広く世界の学界に発表されて然るべきものと考えたからである。
併〔しか〕し其の後の研究に、また思考と推敲に月日を過すうち、この記念すべき年を迎えた。そこで稿を書き改めて八紘に洽〔あまね〕きわが国の言葉を以て茲〔ここ〕に上梓するに到ったことは、特にこの際書き留めて慶びとしたいと思う。」
どうでしょう、「記念すべき年」にしろ、「慶び」にしろ、この後段の内容を文字通りに受け取る人はいないでしょう。佐藤は出版が目前に迫り、序文を草する段階でも、依然として前段の思いを強く抱いていたことが、言葉の端々ににじみ出ています。
前回書いたように、本書の印刷作業は、太平洋戦争勃発前から進んでおり、当然その段階では、欧文(英語か)原稿を用意していたはずです。しかし、「記念すべき年」、すなわち昭和16年(1941)12月の日米開戦により、にわかに方針転換を迫られたのでしょう。そうしなければ、印刷そのものが許可されないとなれば、否応なくそうするしかないわけですが、自らの成果を世界に問う覚悟だった佐藤としては、内心忸怩たるものがあったはずです。
本書の印刷作業が3年に及んだのは、この余分な作業が加わったのも大きな理由だと思います。もっとも、欧文で直接書き下ろしたのでなけば、先に邦文草稿を作成していたでしょうから、原稿自体は意外に早くできたかもしれませんが、それでも版を組みなおし、一から校正をやり直すのは大変な手間だったでしょう。
(本書扉。下に見える数字は皇紀2603年の意味。時代の空気がうかがわれます)
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昭和20年8月6日、広島に投下された原爆の炎に焼かれ、佐藤夫妻はまもなく非業の死を遂げ、彼の貴重な草稿や標本もすべて失われました。
仮に2発の原爆がなくても、当時、日本の降伏は時間の問題だったことを思うと、広島や長崎の人々はなぜ死ななければならなかったのか、その死はまったく不条理な死であり、民間人を大量虐殺したアメリカ政府の判断は断じて許されないと、私は思います。(もちろん日本人が各地で犯した非違無道も、同様に断罪されなければなりません。)
これら多くの悲劇をはらみつつ、時の歯車は廻転を続け、刀折れ矢尽きた日本は、ついに8月15日を迎えたのです。
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手元の『日本産有尾類創設』は、かつて某「E. Sawada」
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