『星学手簡』
2022-11-26


しばらく、ひそかにミモザ(オジギソウ)問題に集中していました。
ミモザが登場するはずのないギリシャ神話に、なぜミモザが出てくるのか?
さらにコメント欄で指摘のあった、「みなみじゅうじ座β星」の固有名である「ミモザ」の由来は何か?
しかし、いろいろ徘徊したものの手がかりは得られず、空しい結果に終わりました。
まあ、こういうときもあります。この辺で気を取り直して、記事を再開します。

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何か心が軽くなる話題はないかな…と思って、先日耳にしたニュースを思い出しました。

禺画像]
(国立天文台ニュース [URL]

国立天文台が所蔵する『星学手簡(せいがくしゅかん)』が、国の重要文化財に指定されることになったというニュースです。これはまことに目出度いことで、こういうものが大切されてこそ、文明国を名乗る資格がある…と、いささか時代がかった感想ですが、そんなことを思いました。

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『星学手簡』は、江戸の天文学者の書簡集です。
そのわりに「星学」というのが明治っぽい語感ですが、上のニュース記事にあるように、本書は、「明治前期に科学思想史研究家の狩野亨吉(かのう こうきち)の手に渡り、その後東京天文台に譲渡され」た…という伝来を持つので、この間に付されたタイトルじゃないかと思います。

江戸の天文学者といっても、その数は多いですが、ここに登場するのは主に二人の学者です。ひとりは大阪定番同心という役宅に生まれた、幕臣の高橋至時(たかはしよしとき、1764−1804)、そしてもう一人は大阪の富商で、「十一屋(といちや)五郎兵衛」を通称とした、間重富(はざましげとみ、1756−1816)です。他の人とのやりとりも多少混じっていますが、大半は両人がやりとりしたもので、言ってみればこれは両者の往復書簡集です。

二人は若年の頃から天文学に傾倒し、師・麻田剛立(あさだごうりゅう、1734−1799)のもとでその才能を開花させると、武士、町人の身分の違いをこえた同志として、長く共同で研究を続けました。結果として至時は幕府天文方となり、重富も天文方と同格に遇せられましたが、両者の成果として有名なのが、独自の暦法改良にもとづく「寛政暦」の完成です(1798年施行)。

『星学手簡』は、両者が寛政暦を完成する直前の1796年から、至時が没する間際の1803年頃までの間にかわした書状+αを、全部で86通収録しています。編者は至時の次男である渋川景佑(しぶかわかげすけ、1787−1856)と推定されています。したがって、本書に収録された手紙は、差出人もしくは受取人のどちらかが必ず至時になっています。


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[天文余話]

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