「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(5)
2018-06-20


今日は激しい雨。
暑さも一段落ですが、うだるような日々の到来も近いことを予期して、うんざりされている方も多いでしょう。私も暑さにはめっぽう弱い方ですが、でも夏は大好きな季節です。四囲に生命力がみなぎり、草も木も動物たちも、ことのほか勁(つよ)く感じられます。

以下は、ライクロフト氏の夏の思い出。


<夏 第8章>

私はある八月の銀行休日のことを覚えている。ちょうどそのときはなにか用事があってロンドンの町を歩きまわらなければならなかったのだが、ふと気がついてみると思いがけなくも私はネコの子一匹いない大きな通りの不思議な光景に見ほれていた。しかし私のその気持ちは、なんの変哲もない街路樹の見通しやどすんとした建物の中に、今まで気づかなかった独特の美しさ、独特の魅力を感じて、やがて驚きと変わっていった。夏でもごくまれにしかみられないような建物の濃いくっきりした影は、ただそれだけで大変印象的なものだが、人っ子一人いない大通りにそれが射している姿はいっそう印象的なものである。見なれた建物や尖塔や記念碑の形を、なにか目新しいもののように見たことを覚えている。私がそのあとで河岸通りのどこかで腰をおろしたときも、それは休むためというよりゆっくりとあたりを眺めるためであった。というのは、私は少しも疲れていなかったからである。太陽はまだ真昼の光線を頭上にふりそそいでいた。それは私の血管に生命をみたしてくれるかのようであった。

 あの感じを私は二度と味わうことはないだろう。私にとって自然は慰めや喜びではあるが、もはや元気づけてくれる力ではない。太陽は私の命を維持してはくれるが、昔日のように、私の存在そのものに生気を吹きこんではくれない。ものを思うことなく、ひたすらに喜びにひたるすべを習いたいものだと思う。

 真昼時の散歩のさい、私は大きな「とちのき」のところまで行く。その根のところはちょうど木陰で手頃な腰かけとなっている。この休息所には別に広い展望があるわけではないが、私にはただそこから目に入るものだけで充分なのである――つまり、麦畑の端にある、「けし」「チャーロック」の花が一ぱい咲き乱れている荒地の一隅で充分なのだ。そこではあざやかな赤や黄の色が真昼の輝きと美しく調和している。その上すぐ近くには「野生昼顔」の大きな白い花におおわれた生垣もある。私の目はなかなか退屈なぞしないのである。

 私の大好きな小さな植物に「はりもくしゅく」がある。太陽がその上でぎらぎら照りつけると、花はえもいわれぬ馥郁たる香を放つが、それが私にはたまらなく快いのだ。なぜ特にこの香がそうなのか、その原因は私には分かっている。「はりもくしゅく」は海岸のすぐ近くの砂地によく生えているもので、少年時代、しばしばそんなところで赫々たる日の光を浴びて寝そべったものであった。そんなとき自分でも気がつかなかったが、ついその小さな桃色の花が私の顔にふれるたびに、その芳香を私は味わっていたのだ。今では、その芳香をかぐだけで、あの当時のことがよみがえってくるのである。北の方セント・ビーズ岬まで走っているカンバランドの海岸線や水平線上にかすかに浮かぶマン島の姿が私の眼前に浮かんでくる。陸地の方では、当時の私にとって、未知の驚異の国を守るかと思われた山々がそびえている。だが、それも遠い昔のことなのだ。


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