(※以前と同様、今回も故人については文中敬称を略します。また引用に当って、現代仮名遣いに改めました。)
最近はお役所仕事も効率的になったのか、国会図書館の仕事はものすごく速かったです。請求した資料は、代金後払いですぐに届きました。
届いたのはA4が3枚、元の雑誌記事は5ページにわたっています。
(草場修。コピーがつぶれてはっきりしませんが、なかなか堂々とした、気鋭の少壮学者の面影があります。ちなみに、前年、昭和9年の11月に新聞で紹介されたときは、こんな↓法被姿でした。)
記事のタイトルは 「どうして聾の労働者が天文家になったか」、
副題には 「山本一清博士に見出された草場修君を訪問して筆談する」とあります。
繰り返しになりますが、出典は雑誌「婦人之友」の昭和10年(1935)6月号で、記事の筆者は上澤謙二(うえさわけんじ 1890−1978)。ネット情報によれば、上澤は若いころアメリカで学び、後にキリスト教児童文学者として活躍する一方、「婦人之友」の姉妹誌である「子供之友」の編集主任も務めた人です。
そういう人の書いたものですから、文章にいささか文学臭はあるものの、単にジャーナリスティックな好奇心からではなく、草場の純な思いに触れようと、真摯に取材をして文字にしたものと見受けられます。上澤は草場本人と、さらに師である山本一清を訪問して記事をまとめています。
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記事は、草場が無一文で野原に倒れ伏し、絶望の中でも星に慰められて、再び歩み始める場面で始まりますが、その辺は飛ばして、まず客観的な事実を確認しておきます。
草場は文中「本年三十五歳」とあるので、明治33年=1900年ちょうどの生まれ。以前の新聞記事と1〜2年ズレがありますが、ゆっくり取材した上澤の記事の方が信用できそうです。このブログのつながりでいうと、稲垣足穂とは同い年。宮沢賢治よりは4つ年下で、師匠の山本一清とは11歳違いになります。
その経歴は、「九州大分県の生れ、父母に早く別れて、朝鮮釜山の親戚に引取られて育ち、熊本第六師団附輜重(しちょう)兵となったこともあり」…という、苦労の多いものでした。
父母と別れた事情は分かりません。少なくとも母親とは、死別ではなく生き別れです。
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