咲く桜、散る桜に目もくれず続けてきたこの話題も、今日で最終回です。
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こうして、恵まれた環境の中、1937年(昭和12)春、ついに「草場星図」は世に出ました。(とはいえ、刊行された星図には、オリジナルの3万2千個に遠く及ばぬ、5千ないし6千個あまりの星しか記載されていません。「天界」誌掲載の近刊予告では、「先ず大衆的な恒星図に現はした」とありますが、実際にはコストと印刷技術の壁が完全製品化を阻んだのかもしれません。)
(↑「天界」 昭和12年6月号より。小川誠治氏提供=上門卓弘氏のご手配による=。
私は最初、下の『簡易星図』イコール後の『草場簡易星図』のことだと思いましたが、両者はどうも別物のようです。)
辛苦が実を結んだ草場の喜びは、いかばかりであったか。
しかし、その直後に彼の運命は再び暗転します。頼みの山本一清が失脚したのです。
京都帝国大学理学部教授として、また会員1万人を擁する東亜天文協会会長として、当時得意の絶頂にあった山本ですが、この昭和12年、ペルー日食遠征から帰国と同時に、京大総長選挙をめぐる疑獄事件に巻き込まれ、結局、彼は翌年春に教授辞任を余儀なくされます(その間の事情については、以前、チラリと書きました↓)。
こうなると、当然、山本の食客である草場も京大にいることはできません。
いるか書房・上門氏からの情報提供によれば、草場は、1938年(昭和13)の暮れには広島県の瀬戸村観測所にいたことが分かります。ここは東亜天文協会のいわば直営施設ですから、これは草場の身の処し方を心配した山本の配慮によるものだと思います。
その後の草場の足取りははっきりしません。
あるいは写真会社に短期間勤務したというのは、この時期のことかもしれません。草場の経歴の中で、写真会社勤務というのは唐突に響くのですが、想像するに、京大時代に天体写真の撮影に伴うDPE技術を実地に学ぶ機会があり、器用な彼はその方面でも大いに才を発揮したのではないでしょうか。その後、山本の口利きでその方面に就職できたと考えれば、話のつじつまは合います。
いずれにしても、1942年(昭和17)の時点では、京都の左京区一乗寺で「草場写真化学研究所」というのを自営していました。また翌年には北海道まで日食観測に出かけたり、西星会の主要メンバーとして後進の指導にあたったり、アマチュアの立場でそれなりに充実した天文ライフを送っていたようです。
しかし、戦争の激化とともに、草場の足取りはますますはっきりしなくなります。
ここで1つ気になるのは、草場は変光星の観測報告を、昭和17年には「天界」誌に送っているのに、翌18年には日本天文学会の「天文月報」に送っていることです(改訂版『日本アマチュア天文史』、p. 172およびp.177参照)。
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