貧窮スターゲイザー、草場修(6)
2012-04-14


日本天文学会と東亜天文学会は、現在でこそプロvs.アマというはっきりした住み分けがありますが、一時は東大系vs.京大系、あるいは関東vs.関西の闘争意識が絡んで、微妙な関係にありました。少なくとも会長の山本の脳裏には、日天への対抗意識がはっきりあったと思います。もちろん、一般のアマチュアはその辺を顧慮することなく、両方に参加していた人も実際多かったようですが、ただ、山本のいわば「子飼い」である草場が「天文月報」に接近したのは、山本との距離をうかがわせる出来事です。

そして、終戦後の1946年(昭和21)に、山本一清ではなく、神田茂の校閲で『新撰全天恒星図』を出したことは、明瞭に山本からの離反を物語るもので、たぶん「何か」が、両者の間にあったのだと、私は思います。(←これは深読みのしすぎかもしれません。参考程度に聞いておいてください。)

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(↑恒星社厚生閣の出版物(=野尻抱影著 『肉眼・双眼鏡・小望遠鏡 星座見学』、昭和27年再版)の巻末広告より)

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さて、ようやく平和が訪れた日本で、草場はその後どんな人生を送ったのか?
今のところ、まったく手がかりがありません。いつどこで亡くなったのかも不明です。

1966年(昭和41年)の頃には、天文界に顔の広い草下英明氏が「まったく消息を聞かない」と、『天文ガイド』誌上で書いていたぐらいですから、天文界から完全に姿を消していたのでしょう。その頃は60代の後半ですから、すでに鬼籍に入っていた可能性もあります。

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数奇な運命の末に、一時は天文界のみならず社会の寵児として、脚光を浴びた草葉修。

日本の天文趣味史に鮮やかな足跡を残した「貧窮スターゲイザー」に、ここでは注目してみました。話の後半はちょっと尻切れトンボになりましたが、もし、草場氏について何かご存知のことがありましたら、ぜひご教示ください。

(この項おわり)

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