十年一日、一日千秋

コメント(全4件)
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S.U ― 2025-01-19 07:42
私が、貴ブログに初めてにコメントを投稿させていただいたのは、稲垣足穂の『水晶物語』についてで、それの人間の成長や社会に関する哲学的な部分の解釈の質問をさせていただいたと思います。今回、またぞろ、長年気に掛かっている足穂の記述があるので、よろしければ、何らかの解釈をいただきたいと存じます。

 『水晶物語』の3節の中ほどに、「銀河系はそれじゃ・・・」から始まって、「自分だって、決して消滅するわけではない、」「人間は無数にいるのではなく、世界の初めも終りも知っているただ一人だけがいるだけであると気付いた・・・」と続く部分があります。これは、足穂は、個人と人類全体についてどんな解釈を持ったのだと思われますでしょうか。キリストのような「たった一人の本当の神様」という解釈も出来ると思いますが、自分も消滅しないと言っているので、単に一神教の教えの範囲ではないと思います。

 私も2つほどの解釈は持っていてある程度わかったつもりではいますが、人類全体についての足穂の考えをピンポイントで押さえているわけではありません。よろしくお願いいたします。
玉青 ― 2025-01-19 11:07
振り返ると、あれはブログが2年目に入った2007年のことでしたね。
では久しぶりに「水晶物語」で語り合うことにいたしましょう。
とはいえ、以下は単なる思い付きの放言ですので、あまり真面目には受け取られませんように。

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『水晶物語』は、最初『非情物語』というタイトルで戦時中に発表されたもので(初出未詳)、足穂のリアルな少年時代はもとより、作品執筆時でもまだ定常宇宙論が常識の時代でしたから、「永遠の過去」というのは、足穂にとって自明なものだった…というのが大前提としてありますね。

『水晶物語』の主人公は、自分よりも長命な鉱物をあがめ、100年もしないうちに消えてしまう自分に不安や不満を覚えていました。しかし、足穂は青年期から壮年期にかけて、自身の永続性が肚落ちする経験をしていた気がします。あれはたしか「明石もの」に属する作品だったと思いますが、足穂はニーチェの永劫回帰的なアイデアを、作中で開陳していましたね。

足穂は、相対性理論の解説書を通じて、物質はエネルギーへと変わることで消滅しうることを当然知っていたはずですが、その一方で原子(素粒子)は無限の過去から無限の未来にいたるまで不生不滅の存在であり、この宇宙の中で永遠に離合集散を繰り返している…というイメージを持っていた気がします。

永劫回帰の立場からすれば、「自分」は無限の過去から無限の未来に至るまで(離散的にではあれ)無数に存在しており、物質の起源に思いを巡らせたかつての自分は、過去にも無数にいたし、これからも無数に存在するはずで、今生の自分はその無数の自分の一人にすぎない…という論理的帰結になります。そして同時に、自分(の一部)は、過去と未来において他者(の一部)であり得たし、今後もあり得る、自分はあらゆる他者の人生を経験したし、また経験するであろう…という、これは仏教的観念も混じっているかもしれませんが、そんなことも考えたんじゃないでしょうか。

『水晶物語』の例の文章は、そうした境地に至った足穂が、過去の幼い自分を評して、

「…人間は無数にいるのでなく、世界の初めも終わりも知っているただ一人がいるだけであると気付いたとすれば、大した話です。が、未だ〔=子供時代の自分は〕そこまでは行きません。鉱物に較べると、大方の生物はまるで泡(あぶく)だ、と私は思ったのです。」

と言ってみたんじゃないでしょうか。私見として、そんなふうに解釈してみました。
S.U ― 2025-01-19 17:28
ありがとうございます。ここでは、自分(玉青さんやS.U)がどう考えるかではなく、足穂がどう考えたかという問題なので、難しいですね。子どもの時の足穂が、自分は有限の命であるのに(それもまだほんの10年ちょいしか生きていない)、鉱物はすでに悠遠の時を生きていると思って自分を嘆いたことはあったのでしょう。それで、人間が長い命を生きるためには、原子の不滅を手がかりにして仏教的な輪廻転生を考えたということはじゅうぶんに考えられますね。ただ、足穂が拘ったのは、原子という実体なのか、原子の並びが表す情報(人間で言えば、知性とか理性とか)なのかはちょっとわかりません。両方かもしれません。私は、ニーチェの思想についてよく理解していないのですが、彼も、原子と理性の不滅のことを関連づけて主張していたのでしょうか。
 
 せっかくですから、私の推定もご披露させていただきます。私は、『水晶物語』を読む前に、足穂の「地上とは思い出ならずや」という言葉にわからぬままにいたく感動してしまい、これは何の思い出かというと、天上界の情報の集積の思い出であろうと考えました。当時の私は、宇宙のすべての情報の知識庫(アカシックレコード)のようなものが科学的に考えられるかということについて、物理学でいう「ラプラスの悪魔」と「量子力学の不確定性」の対立から関心を持っていたので、そちらに引きずられたのかもしれません。

 このようなアイデアがニーチェや足穂とつながっているのかは知らないまま、足穂の「たった一人の人間」というのも、宇宙の知識庫にある人類の情報のことではないかと解釈しました。その知識庫には、当然、人間の行動や感情の全情報も入っているはずですから、地球で起こった人間の一生は、知識庫から見ると思い出になると思ったのです。でも、足穂がこの知識庫のようなもののイメージを持っていたとしても、そこへのアプローチにはいろいろな見方があって、物理学・生命学のような自然哲学、宗教やニーチェのような人文哲学、史的唯物論のような社会哲学のすべての視点を盛り込むことが可能で、大正時代から昭和の戦争の時代を体験した足穂にとっては、そのすべての見方を盛り込むことができたのではないかと思います。ここでは、私の第一の推定として、私の若い時の関心に執着して、自然のすべての情報を知っている「ラプラスの悪魔」が人間の内心の事情まで見通しているという考えを足穂は持っていた、ということにとりあえずしておきたいと思います。
玉青 ― 2025-01-20 19:25
>足穂がどう考えたか

自分の作品が現代文のテストに出された作家が、そこで問われた「作者の考え」と、その解答を見て、「いやあ、俺はそんなこと考えてないんだけどなあ…」とぼやいたとか、ぼやかなかったとか。でも、作品は発表された時点で作者の手を離れ、その解釈は読者にゆだねられると考えるのが至当ですから、件の作者のぼやきは理解するものの、これはぼやく方が野暮というものでしょう。(そういうテストを出す方も野暮ですね。)

まあ、これが聖書とかだと、教義解釈がやかましいことになって、ちょっとひねったことを言うと異端審問にかけられたりして剣呑ですが、相手が足穂なら、彼もそうそう野暮は言いますまい。我々も、『水晶物語』を一読者として自由に解釈していいのではないでしょうか。

というわけで、ここでは解釈の「当否」はあえて問わず、己の膨らませたイメージの中にたゆたうのが好いように思います。アカシックレコード説、また大いに可なり…と受け止めました。

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