土御門、月食を予見す(後編)

コメント(全4件)
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S.U ― 2024-06-10 19:00
これは楽しい調査ですね。
江戸時代の天文学に使われていた時刻は、1日を100刻に分けていたというと、100進法を使っていたわけで、今よりもモダンな感じですが、それをまたわざわざ子丑寅卯・・・の12分割に当てはめて8.333刻とやるとは、厳密さと緩さのミックスがこたえられません。これもあわせて勉強になりました。

 なお、土御門家の計算は、「京師標準時」のつもりでやっていたはずで、今の国立天文台は「明石標準時」ですから、江戸時代の時刻は定時法でも3分進んでいたはずです。1刻の精度ではまったくどうでもいい細かい話ですが、明治初期の改暦で、心ある人は時計を3分遅らせたはずです。(実際、時計を3分戻した人がいるかどうかは調べたことがありません)
S.U ― 2024-06-10 19:04
すみません。ちょっと間違えていました。
江戸時代は京都で、今は明石ですが、明治の前半の一時期は東京標準時が使われていたそうで、改暦時は3分遅らすのではなく、いったん16分進めたはずなのでした。
[URL]
玉青 ― 2024-06-11 18:22
>京師標準時

あっ、今昔の標準時の違いをすっかり失念していました。それを勘定に入れると、宝暦暦の食甚時刻は、記事中の扱いよりも、もうちょっと精度が良かったことになりますね。これは土御門家の名誉のために付言しておくことにしましょう。

江戸時代の時刻制度を考えるとき、不定時法に由来する季節ごとの時間変化はすぐに思い浮かびますけれど、リンクしていただいた「暦Wiki」の記述を読み、それだけでなしに、各地の経度差に応じた「地方視時」の存在も考えないといけないぞ…という事実に思い至りました。

思うに近代以前の人は、「時間とは斉一に進み、時刻は万人が共有するもの」という観念を持たない、いわば「相対論的時間」の世界で生きていたのかもしれませんね。
S.U ― 2024-06-12 06:30
>相対論的時間
 渋川春海の映画やテレビ番組で、貞享暦に至る彼の大発見の一つが、この北京と京都の「時差の発見」だったといいます。私は当時の資料でこれが史実かどうかは確かめていませんが、「里差」とか「大和暦」とかの言葉が残っているので、重要な発見と見なされたことは間違いないと思います。

 例の暦Wikiによれば、江戸時代の知識では、北京と京都との時差は5刻であったとあります。たいへんざっくりとした精度で、実際、私が計算すると、5.4刻ですから、これでは、中国暦がたとえいくら正確でも6分くらいの誤差はまったくわからなかったことになります。この北京との里差は月食などの天体観測を使ったものではなく、たぶん、各国の地理情報から求めたものではないかと思います(中国の月食の記録を使ったかは確認していません)

 寛政期以後の『星学手簡』だったかに、大陸との経度差が北方の樺太あたりの地理の議論で取り上げられ、大陸側の情報と西洋の世界地図と伊能忠敬(のちに間宮林蔵)の日本側の測量を照らし合わせて、経度差を計算し、島と大陸との位置関係を論じていたと思います。海事・軍事情報として重要になってきていたようですが、依然として測定する手段がないので、やはり外洋船で測量しないとわからない部分が多かったのではないかと思います。この辺は、日本と世界でどういうふうに情報が錯綜していたか、調べてみると面白いと思いますが、海洋測量までは手を広げていません。橋景保のファンは多いと思うのでまとめている人はいるかもしれません。

 月食の時刻をあちこちで同時に記録すれば片付く問題ですが、そういう観測や計算は(本州、四国、九州の範囲の外では)聞いたことはありません。

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