悲運の人、レピシエからの便り(後編)
2023-11-29


(前回の続き)

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近代日本天文学の一番槍、エミール・レピシエ
その人の自筆書簡をイギリスの古書店で見つけました(もちろんネットカタログ上でのことで、それも狙ったわけではなく偶然です)。

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(紙片の大きさは約11.5×13cm)

上がその全容。書簡といっても紙片に走り書きしたメモ程度のもので、日付も署名もありません。あるいはこれはもっと長文の手紙の一部を切り取ったもので、日付と署名は別の箇所に書かれていたかもしれません(その可能性は高いです)。

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無署名なのに、なぜレピシエの手紙と分かるかといえば、右下に別筆で「astronome Lepissier de l'observatoire de Pekin(北京天文台の天文学者レピシエ)G.R.」と書かれているからです。この手紙の受取人、ないしは受取人から譲り受けた「G.R.」なる人物が、備忘として余白に書き残したのでしょう。ただし、レピシエが北京天文台に在籍したという記録はないので、これは事実誤認です。

肝心の本文は、幸い件の古書店主氏によってすでに読み解かれていました。

 「Si vous le jugez plus commode, Vous pouviez remettre les objets que je vous demande a Madame Coeuille, lingere au marche Papincourt, demeurant Petite rue Papincourt, No. 10, avec priere de me les fair parvenir a ma nouvelle adresse, a Shanghai, car nous avons du, pour cause de frenrite, quitter Pekin apres le massacre de Tientjin.」

意味の判然としないところもありますが、Googleの力を借りると、およそ以下のような意味でしょう。

 「もしそのほうが好都合なら、私が頼んだ品々をパパンクール市場でリネン婦をしている、パパンクール小路10番地在住のクイユ夫人に託して、上海の私の新しい住所あて送ってもらうようお願いしていただいても結構です。何しろ天津での大虐殺の後、私たちは友愛会の関係で、北京を離れる必要があったものですから。」

どうやらまだ中国にいた頃、1870年に北京から上海に移った直後に、パリの知人に宛てて送った手紙のようです。

   ★

レピシエの体温と息遣いを、このインクの染みの向こうに感じ、彼の苦労の一端を偲ぶだけでも、この書簡には大いなる価値があると思いますが、ここには新たな事実も顔を覗かせています。それは末尾の一文です。レピシエは「Tientjin」と綴っていますが、これは普通に考えて「天津」でしょう(現代フランス語では「Tianjin」と綴るそうです)。

ここでいう「天津での大虐殺」とはいったい何か?

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