寺田寅彦といえば、彼の写っている「生写真」が手元にあります。
といっても、集合写真の一角に写っているだけですが。
(写真の要部拡大)
上は当時の「東京帝国大学理科大学」(現・東大理学部)の卒業写真。
年次は明治39年(1906)で、当時は9月から学校年度が始まったので、この写真は7月の撮影です。写真の大きさは21.5×28cm、台紙も含めると33.5×41.5cmと、かなり大きなものです。
その一番後ろに写っているのが寺田寅彦。
当時の肩書は「物理学講師」で、まだ博士号を取得する前の一理学士の頃です。
漱石は彼をモデルに、『吾輩は猫である』に出てくる「理学士・水島寒月」を造形しましたが、『猫』は当時リアルタイムで連載中だったので、まさにこれがリアル寒月君の風貌ということになります。
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寅彦もさることながら、この写真自体、明治科学の歴史を伝える興味深いものなので、もう少し仔細に見てみます。
この写真は、日本地質学会の会長も務めた、地質学者の中村新太郎博士(1881−1941)の手元にあったもので、そのご遺族から出たものと思います。私はたまたまヤフオクで見つけました(他にも旧制高校時代の写真や、家族写真なんかと一括で出品されていました)。
写真のいちばん右下に写っているのが、卒業生の一人である中村博士です。
この写真で興味深いのは、写真の台紙裏面に、中村博士自筆のメモが貼付されていて、人物をすべて特定できることです。
(裏面のメモ)
画像では読み取りにくいので、全員書き起こしてみます。(分かりやすいよう、教員は太字にしました。原文にあるカッコ書きは、卒業生の所属学科です。)
▼第5列=最後列
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