今回の件は非常に心を動かされたので、もう1回だけ書きます。
前回、前々回と2回書いてもうまく書けなかったことが、その後「うーむ」と腕組みをしているうちに、パッと分かった気がするので、ここに書きつけます。
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もちろん私は、その都度自分なりに正しいと思ったことを書いているのですが、それでも一抹のためらいが常にありました。筆先がちょっと鈍るというか、何かモヤモヤするものがあったのです。
なぜか? 例えば、政権批判にしても、慰安婦問題にしても、私は自分と違う意見を持つ人がたくさんいることを知っています。そして、たくさんいるということは、何かそこに私の見落としている論理と根拠があるのではないか?…という疑念を拭えませんでした。だから、相手の言い分にも耳を傾ける必要があると考えて、自説をいかにも自信満々に書くのをためらう気持ちがあったのです。
そういう「謙虚さ」(自分で言うのもなんですが)の背後にあるのは、「お前さんの話も聞くから、俺の話も聞いてくれ」という態度です。もちろんこれは悪いことではなくて、至極真っ当な態度です。というか、当たり前のことだと思います。
ただ、「お前さんの話も聞くから、俺の話も聞いてくれ」というのは、相手も同じスタンスでいるときしか通じない態度です。相手が最初から話を聞く気がないとき、いくら「お前さんの話も聞くから…」と言ったって、馬耳東風もいいところで、相手とイーブンの関係にはなりえません。
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私が今回悟ったこと。
それは、こういう場面――不特定多数に対して何かを発するとき――で大事なのは、「お前さんの話も聞くから、俺の話も聞いてくれ」よりも、まず「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」だということです。これならば、相手のスタンスによらず、お互いイーブンの関係で向き合えます。
そして、表現の自由の本質とは、まさにこの「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」にあるんじゃないでしょうか。裏返せば、表現の自由が守られない場面とは、「俺は話すぞ。だけどお前は話しちゃいかん」という態度が登場する場面です。
今回の騒動の基本構図も、「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」vs. 「俺は話すぞ。だけどお前は話しちゃいかん」の対立と言える気がします。
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でも、お互い自分のことを話すだけだったら、いたずらに言葉が飛び交うばかりで、不毛じゃないの?と思われるかもしれません。確かに不毛な場合もあるでしょうが、意外にそうでない場面も多いです。
たとえば、各種の自助グループなどは、お互いワーワー言いっぱなしで、あれこそ、「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」の原則が徹底している場面です。でも、参加者はそのやりとりに確かな意味を感じ、だからこそ参加しているわけです。
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