コメント(全17件)
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S.U ― 2023-03-21 07:33
まだ、まとめていないので細かいことは書けないのですが、江副(西田)碧氏の手記の全体を読んだことを元にわかったことのうち、草場修氏の最晩年の情報についての補足を、関連研究者の方々への情報として、この場をお借りして書いておきます。
1947年当時、草場修は、西田己喜蔵氏の創設した「大阪産業社」に雇われていて、会社の仕事と碧氏の住居の整備をしていました。草場の住所の「会社のバラック」が、会社と同じ敷地とすると、それは、茨木市岩倉町で、今の立命館大学大阪いばらきキャンパスの構内に相当します。ここが彼の観測場所の1つだったのです。
論文の住所が、草場が高槻市に一定期間滞在(入院)していたことを支持していますので、高槻市の範囲で山手にある病院を探しました。日赤高槻赤十字病院を最有力候補として提案します。終戦の頃、ここは、軍人病院から結核患者用の病院に変わりました。老人病院もしていたかどうかはわかりません。草場は障碍者の扱いだった可能性もあります。ここまで碧氏は自転車で行ったことになりますが、当時の碧氏は小5〜中1で、朝から夕方まで自転車で遠乗りすることがふだんから趣味だったようですので、片道4kmくらいはなんでもなかったと思います。己喜蔵氏はやさしい良い父親だったようですが、碧氏の母親の死の直後は会社のことで忙しく、碧氏のことをじゅうぶんにかまえていなかったようです。
玉青 ― 2023-03-22 06:16
追加情報ありがとうございます。草場氏の伝記事項がさらに肉付けされ、明瞭になってきましたね。碧氏視点での草場氏との交流の様子が、なんだか映画のワンシーンを見るように、まぶたに浮かんできます。
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