通じない話
2018-06-02


本日2本目の記事は、閑語の拡大版です。
先週のニューヨーク・タイムズで、「ナガタ方言――言語学最大のミステリー」という、大変興味深い記事を読んだので、例によって適当訳でご紹介します。

-------------- (引用ここから) --------------

「ナガタ方言――言語学最大のミステリー」  by メアリー・トンプソン

 日本の首都・東京の一角にある永田町で、一部の住民が操る言葉(一般に「ナガタ方言」と呼ばれる)に注目が集まっている。それは確かに標準的な日本語とよく似た音韻体系を持ち、文法もかなりの程度一致している。また語彙にも共通するものが多い。しかし、ナガタ方言の話者と、標準的な日本語話者との間では、ほぼまったく会話が通じない。

 これまで、両者の言語学的類似性から、「ナガタ方言はあくまでも日本語の一方言である」とする見解が、言語学界では主流だったが、最近ではナガタ方言という呼称をやめて、「ナガタ語」という独立した言語と捉えるべきだと主張する研究者も増えている。

 標準日本語とナガタ方言とのディスコミュニケーションの例として、例えばナガタ方言の話者が「シンシニ」や、「セイジツニ」という言葉を使う場面が挙げられる。それは標準的な日本語の「真摯に」や「誠実に」と発音は同一だが、標準的な日本語話者は、その意味をほとんど理解できない。

 これは確かに奇妙な状況である。明らかに同一起源をもち、現在においても共通性の高い二つの言語体系の間で、コミュニケーションがこれほど困難ということがあり得ようか?現にあり得るとしたら、その原因は何なのか?

 この言語学的ミステリーに対して、最近、画期的な見解が示された。
 「ナガタ方言はそもそも言語ではない」とする見解だ。

 ナガタ方言について長年研究してきた、ジョンズ・ホプキンス大学のマイケル・クラーク教授はこう語る。

 「ナガタ方言は、コミュニケーションのツールではありません。言語とはコミュニケーションの手段であるという前提――これは常識的にも言語学的にも支持される見解です――に照らして、ナガタ方言を言語とみなすことはできません。このことは、ナガタ方言――もはやそれを方言と呼ぶのは不適切かもしれませんが――に対して、我々が行った語用論的分析からも明らかです。ナガタ方言は、自然言語が有するはずの語用論的適格性をことごとく欠いているのです。

 また、言語は内言化することで、我々の思考の手段としても機能しますが、脳の血流分析の結果、ナガタ方言の使用者は、ナガタ方言を使用する際に、運動性言語中枢のみを使用し、感覚性言語中枢はほとんど関与していないことが分かっています。要するに彼らは発声運動は盛んに行っていますが、そこには言語の意味理解が伴っていないのです。ナガタ方言の話者は、ナガタ方言によって何か抽象的思考をすることは、おそらくできないでしょう。

 ナガタ方言は、言語というよりも、冗長度の高い無意味な記号列であり、一種の疑似言語だというのが、我々の結論です。

 もちろん、クラーク教授の急進的な見解には反対意見も多い。
 しかし、ナガタ方言の使用範囲が、日本の政治的判断の中枢部と偶然以上の確率で一致しているという事実に照らして、ナガタ方言が真に言語かどうかは、早期に決着を着けなければならない問題だろう。


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