明治前後150年
2018-01-02


あけすけに言って、私は安倍氏が嫌いなので、ついつい氏の言動に目が向きます。いわばアンチですね。そして、この正月には「明治150年」云々というようなことを口にされたそうです。でも、この150年間は、「明治150年」などと、一括りにできるような実体をまるで備えていないし、至極空疎なフレーズと感じます。

確かに明治の45年間は、良きにつけ、悪しきにつけ、ずいぶん頑張った時代で、国として大きなうねりを見せました。しかし、その「遺産」を食いつぶして、国をすっかり焼け野原にしたのが昭和の時代で、先人はその反省に立って(少なくとも当座はそうでした)、せっせと頑張って国を復興したのですが、その「遺産」を再び食いつぶして、この国に恐るべき荒廃をもたらしているのが、安倍という人物だと私の眼には映じています。

端的に言って、安倍氏とその取り巻きが、「明治150年」などというフレーズを軽々に口にするのは、無知か、恥知らずか、あるいはその両方だと思います。

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日本という国が経験した、大きなうねりを回顧するのであれば、むしろ明治の45年間と、さらにそれに先立つ100年間に着目するのが至当ではないか…ということを、NHKの正月時代劇を見ながら思いました。

今年の時代劇は、『風雲児たち〜蘭学革命篇』と題して、杉田玄白(1733−1817)前野良沢(1723−1803)による、『解体新書』の翻訳と刊行をめぐるエピソードを、平賀源内、田沼意次、林子平など同時代の異才を絡めてドラマ化したもので、三谷幸喜氏の脚本も面白く(原作はみなもと太郎氏)、楽しく見ることができました。

この時期、日本に科学の種が蒔かれ、開国の種が蒔かれ、国防の種が蒔かれ、尊王の種が蒔かれ、明治維新に向けてカウントダウンが始まったのだ…というのが、ドラマの芯にある主張のようでした。

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玄白や良沢が活躍した18世紀後半。
年号でいうと明和〜安永〜天明〜寛政という時代は、日本の歴史にあって、有数の「才人の時代」でした。もちろん、門閥制度と封建社会という基本的な制約はあったにせよ、各地に身分を超えた知的サークルが生まれ、多くの才人たちが盛んに議論を戦わせて、学問が大いに興起したのがこの時代で、『解体新書』はその象徴です。

知的な才というのは、いつの世も常に一定の比率で大地にこぼれ落ちるのかもしれませんが、その種がうまく芽吹き、花開くかどうかは、時代という名の環境の影響によるところが大きく、18世紀後半の日本は、その意味で豊饒な環境だったのでしょう。

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ことは医学に限らず、天文学の世界もそうです。

卓越した観測家・理論家として江戸後期の天文学をリードした、脱藩医師の麻田剛立(あさだごうりゅう、1734−1799)。その弟子で、寛政の改暦を成し遂げ、晩年は超人的な努力で蘭書を読み解いた

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[天文余話]

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