戦前の神戸で、「おしどり天文家」として活躍された〓部進・守子夫妻。
そのライフスタイルの背景に注目してみます。
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〓部進(ささべすすむ)氏は、明治25年(1892)、島根県松江市の生まれ。
大正5年(1916)に東京高商、今の一橋大学を卒業すると同時に、三井物産に入社し、船舶部に勤務されました。その後、大正8年(1919)にはアメリカ、そして大正9年(1920)にはロンドンと、海外勤務を経験された後、「船舶部遠洋掛主任」となり、さらに昭和11年(1936)には「船舶部長代理」の要職に任じられています。
その自宅に「六甲星見台」を建て、星の観測に熱中していたのは、ちょうど船舶部長代理のポストに就く前後のことになります。もちろん、商社の海上輸送部門の責任者が閑職だったはずはないので、相当な激務の中、余暇の時間を大切にしながら、天体観測に励まれたのでしょう。
昔のイギリスの「グランドアマチュア」には、「働かなくても食べていける人」というニュアンスがあったので、〓部氏の場合、そこだけはちょっと違うかもしれません。
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で、肝心の「六甲星見台」の位置ですが、〓部氏のご自宅は「灘区高羽曽和山」にあった…と資料には出ています。地図を見ると、神戸大学の六甲キャンパスの南麓に、今も高羽町という町名があって、その近くに「曽和山マンション」というのが、グーグルマップだと表示されます。たぶん、その付近に白亜の「六甲星見台」はあったのでしょう。
この間、〓部氏のお名前が人名録に登場するのは、管見の範囲では、昭和3年(1928)発行の交詢社版『日本紳士録』(第32版)が最初で、会社員ながら所得税の高額納税者として、紳士録に名を連ねています。
著名な企業のエリートサラリーマンとはいえ、一介の勤め人が何故?…と、一瞬思いましたが、でも改めて考えたら、この事実こそ当時の「財閥」というものの性格を、はっきり物語るものではないでしょうか。もちろん、三井物産は今も大企業ですが、その社会的意味合いにおいて、戦前の同社は、現在とは少なからず異なっていたように思います。
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一方、守子氏の方も、夫君と同じ島根県の生まれで、生年は明治31年(1898)。
地元の高等女学校を卒業され、その後、進氏と結婚されたわけですが、長女を出産されたのが大正10年(1921)、守子氏23歳のときですから、おそらく学校を出て、あまり間を置かずに〓部家に嫁がれたのではないでしょうか。そして、進氏と共に海外生活も経験されたのでしょう。
ここで、洋装が板につく、細面で活発な、ジブリ的キャラクターを連想するのは、私の無邪気な空想に過ぎませんが、でも、夫妻を取り巻くムードはとにかくハイカラなのです。
(新緑を楽しむハイカラな二人。戦前の神戸のタクシー会社のマッチラベル)
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