アイヴスは1876年ゼラチン凸凹型(gelatine relief)と石コウ型を使用する“フォト−ステレオタイプ法”(photo-stereotype process)によって、線画のネガチブから写真凸版をつくり、さらに1878年には同じく“フォト−ステレオタイプ法”を利用して、連続諧調の網版を製版する方法を発明した。“ハーフトーン”(Halftone)という名称をはじめて用い、1881年にはハーフトーン法の米国特許2種を得た。
(アイヴスとハーフトーンの記念切手、米1996)
そして1885年にはフランクリン学会(Franklin Institute)の主催でフィラデルフィアで開かれた新案品展覧会(Novelties Exhibition)に、網版の印刷物を出品すると同時に、数色刷りのクロモ石版の印刷物を3色版に複製して(単線スクリン使用)出品した。次いでその翌年(1886)かれは2枚抱き合わせの網目スクリンを紹介し、角シボリの使用を推奨した。その後レヴィー兄弟(Lovis Edward and Max Levy)の網目スクリンの完成に協力し、1888年スクリンの製作に最も大切な刻線機をレヴィー兄弟が発明したので、はじめて交差線の網目スクリンが得られるようになり、アイヴスはアメリカで最初の精巧な網版の製版印刷に成功した。
このアイヴスと呼応してドイツのミュンヘンで写真製版の仕事をはじめていたゲオルグ=マイゼンバッハは、1879年に単線スクリンを修整済みの透明ポジチブに重ねて透かし撮りを行ない。半ばでスクリン角度を変えてふたたび露光し、網ネガチブを得る方法を工夫した。しかし1881年には暗箱の撮りわくの中わくの内部に、単線スクリンを差込み露光の半ばでその角度を変えて、2度露光して網ネガチブを撮影する方法に改め、1882年に英独両国の特許を得た。
ところがかねてからマイゼンバッハの網版の研究に協力していた建築技師のシュメーデル(Ritter von Schmadel)が1884年にダイアモンド針の彫刻機を工夫し、約15cm平方のガラス板に単線スクリンを彫り、1888年になってはじめて2枚合わせの交差線スクリンが完成した。その結果、露光半ばでスクリン角度を変える必要もなくなり、露光も1回で済むことになってマイゼンバッハの網版製版法“オートティピー”(Autotypie)は全く面目を一新した。
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長々とした引用のわりに、今ひとつモノの方がはっきりしませんが、ともあれ1880年代は近代印刷術における大きな画期で、この時期に網版が生まれたおかげで、1890年代以降(20世紀に入ればなおさら)写真図版が書籍や雑誌に多用されるようになりました。
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網版に次いで、もう1つおまけに3色分解カラー印刷の話。
こちらは、網版よりも一足早く、1860年代から研究が続けられてきましたが、その実用化の道筋がついたのは、やはり1880年代に入ってからのことです。(というか、3色分解法の実用化のカギは、3色の版をいかに効果的に重ね刷りするかにあり、その解答こそ網版だったので、両者の実用化には必然的な結びつきがあります。)
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