螺旋蒐集(7)…存在の始原へ
2014-01-05


夢枕獏氏の『上弦の月を喰べる獅子』は、「SFマガジン」誌に連載され、後に日本SF大賞を受賞しました。ですから、一般にはSF小説に分類されるのでしょう。ただ、いわゆるサイエンス・フィクションとは遠いテーマであるのも確かです。以下、作品の終盤。

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賢治と「螺旋蒐集家」が融合することによって異界に突如出現した男、アシュヴィンは、数々の経験を経て、ついに蘇迷楼(スメール、世界の中心にそびえる須弥山のこと)の頂にある獅子宮の中に足を踏み入れます。

 螺旋蒐集家は、螺旋階段を登り、最後の一段を踏み出したのであった。
 岩手の詩人は、オウムガイの対数螺旋の極に、たどりついたのであった。

そこでアシュヴィンを待ち受けるのは二つの問。もし彼がそれらに正しく答えられたら、世界は消滅すると言い伝えられていました。しかし、アシュヴィンは己の運命に従い、問と正面から向き合います。その二つの問とは、汝は何者であるか?、そして朝には四本足、昼には二本足、夕には三本足の生き物がいる。それは、何であるか?」というものです。

もちろん、二番目の問は有名なスフィンクスの謎ですが、答は単純に「人間」なのではありません。ここで仏典を連想させるやりとりがいろいろあって、アシュヴィンは見事二つの問に答を与えます。と同時に、問う者と問われる者の合一が生じ、ここに最後の問が自ずと発せられます。

 「野に咲く花は幸福せであろうか?」
 問うた時、そこに、答はあった。
 問うたその瞬間に答が生じ、問がそのまま答となった。
 野に咲く花は、すでに答であるが故に問わない。
 もはや、そこには、問も答も存在しなかった。


これが作品のクライマックスで、この後、現世における螺旋蒐集家と賢治の死、それに釈迦の誕生シーンがエピローグ的に描かれて、作品は終っています。(それによって、2人の物語は釈迦の“過去世”を説く本生譚だったことが明らかとなり、時空を超えた不思議な螺旋構造が読者に示されるわけです。)

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禺画像]

昨年のクリスマス・イヴに、インドの古都から届いた古い巻物。
ここには生命の根源的秘密が図示されている…
と、無理やり話を盛り上げる必要もありませんが、でもまんざら嘘でもありません。

禺画像]

届いたのはインドの学校で使われていたDNAの掛図です。表面のニスの加減でずいぶん時代がついて見えますが、1985年のコピーライト表示が見えるので、比較的新しいものです。

まあ、DNAの掛図を、わざわざインドから取り寄せる必然性は全くないんですが、当時は獏氏の本を読んだばかりだったので、インドと生命の螺旋というタームが心にいたく響き、ぜひ買わないといけない気がしました。

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