(今日は字ばかりです)
京都・伏見にある京都科学を訪問した村上・安西の両氏を案内してくれたのは、同社営業課の横山さんで、以下は横山さんの話。
「顔には苦労しますねえ。新製品、必ずどこかクレームついて、またやり直しなんかしてますよ。結局まあ、うける顔っていうとまず優しくて可愛いということになりますね。だからタイプが決まっちゃって、たとえばある顔が気に入られたら、それじゃ次も同じようにしようか、ということはありますね。
そういうのは『こういうのはどうですか?』といって持っていった看護学校の先生の判断に影響されるわけなんですよね。だから、Aという先生はこれでいいわと言っても、ほかの学校行ったら『なんですか、これ、もうちょっとなんとかなりませんか』というような、よくそういう話はしていますね。我々の立場からするとしょうもない話なんですけどね。教育にどう関係あるのかとは思うんですけど、実際はなかなか…」
人体模型の「顔」を決めたのは市場だった…ということがよく分かる話です。
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そういう「うける顔」を安定的に作り出すことを可能にした技術的バックボーンが、樹脂成型の技法でした。樹脂製の人体模型は、京都科学自身が戦後に開発したもので、無個性な表情の人体模型が世間に行き渡るようになったのには、そういう実際的な理由もあったと言えます。
以下は、村上・安西両氏が京都科学を訪問した、1986年当時の人体模型製造工程です。
「工場の入口を入るとまず樹脂の成型工程がある。この部分には特殊なものは何もない。〔…〕つまり肝臓を作るなら肝臓の形をした金型に樹脂を注ぎ、鯛焼きみたいに焼いちゃうわけである。その辺にはいろんな金型があり、胎児の首やら骨盤やらがずらりと並んでいて、異様といえば異様だが、工程そのものは洗面器を作ったりするのと同じことで、技術的に特筆すべきことは何もない。」
現代のマスプロ化した人体模型が生まれる現場の様子です。
ただ、そこには人体模型ならではのこだわりもあって、彩色の段階になると、そこに微妙な「個性」が生まれるのだともいいます。
「そこを通り抜けて階段をとんとんと上っていくと〔…〕彩色部です。下の工場で成型されたものがここに運ばれて、職人さんの手でひとつひとつ彩色される。」
「この作業場の仕事は一人一人の職人の独立性がかなり強く、仕事の分担というのは殆どない。ある人が始めた仕事は本人が終らせるというのが原則のようである。だから大きな人体模型みたいなものでも、一人が一体全部やってしまう。」
再び営業の横山さんの話。
「〔…〕単にね、平面的なものにバッと色を塗るというんであれば、これは機械でもできるんです。しかしね、色わけを細かくしたりとか、質感を出すために独特の彩色〔…〕をするとなると、これは機械では無理です。熟練した人が手でこなしていくしかないわけです、今のところ」
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そして、さらに昔にさかのぼれば、型づくりから職人の手作業ですから、個性あふれる人体模型が生まれたのは理の当然です。
京都府が出している「きょうと府民だより」の2004年4月号に、同社のベテラン職人である、鶴岡邦良さんへのインタビュー記事が載っていて、鶴岡さんが入社した昭和34年(1959)当時の状況がこう語られています。
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