古書の話をもう少しだけ。
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以前、荒俣宏氏がご自分の蔵書(博物学書)を武蔵野美術大学に売却されたという話題を書きました。
その中で、私は「氏の行動はあまりにも恬淡として、少なからず違和感を覚えます…結局のところ、荒俣氏にとっての博物図譜は「資料」であって、愛書の対象ではなかったのか?」という疑念を述べました。
最近、その疑念を解く記事を読みました。
■荒俣宏さんにいざなわれる 目眩く愛書家(ビブリオファイル)の世界
[URL]
↑の記事によると、荒俣氏のコレクションの4分の1が洋古書販売の雄松堂に寄託されており、残りの半分が氏の母校である慶應大学に、さらに残りが武蔵野美術大学と国会図書館に買い取られたのだそうです。
で、このインタビューの中で、こんなやりとりがあります。
「アラマタ先生にはまだ欲しい本が、あるんですか?」
「いや、もう、手に入れたいと思う本は一回は買いましたね。」
きっぱり言い切るところがすごいですね。
「一回は買った」という言い回しも、底知れぬ感じです。
「ただね、本日、ご紹介さし上げた愛書家向けの本は、ふつうの本とちがって次の誰かに渡さなければならないから…。〔中略〕だからわたくしも「つなぎ」のコマのひとつとして保管しているだけなのです。」
なるほど、そういう思いで蔵書を手放されたのですね。
一種の諦観でしょうか。人生の有限性を、知識ではなく実感として知れば、所有ということは確かに空しい。
「古書は人の手から人の手へと渡っていく」と思ったのは錯覚で、実は人間の方が不動の古書の森を通過しては消えて行く…そんなイメージも浮かびます。
我が身を振り返り、思うこと多々。でも荒俣氏ぐらいにならないと、なかなか「解脱」は難しいのではないか…という気も正直します。
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