帝都復興土竜隊(その2)
2011-03-25


原発、是か非か―。
電力需要をどうするとか、火力発電の環境負荷とか、いろいろ考えましたが、そういうことは全て脇に置いて、結局のところ、重要なのは「何かあったときに制御できないものを、人が自らの手で作り出してはいけない」という単純な事実に尽きるのではないかと思いました。これは、神話・伝説からSFに至るまで、繰り返し語り継がれてきた、人類に課せられた基本的タブーだと思います。

しかし、もはや愚かさを悔いた人々が祈りを捧げても、救いの手をさしのべる神はいない…そのことが、途方もなく重苦しく感じられます。

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(↑キーストン鑿井機1号型)

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(↑同4号型。いずれも『東京及横浜地質調査報告』より)

さて、記事の方はふたたび大正時代の震災に目を向けます。

地質調査チーム(ここでは仮に土竜隊の愛称で呼びます)の目的は、端的に地盤の強弱を知ることにありました。これはもっぱら土木工学上の要請によるものですから、「地質年代、気候ノ変遷等」、地質学本来の研究については、「之ヲ後日ニ譲ルコト」となりました(ちょっぴり残念ですね。徹底的な調査の好機ではあったのですが)。

ところで、これまた個人的なことですが、私は子供のころ東京の平べったい街中に住んでいたため、「崖」とか「地層」という概念が全くありませんでした。もちろん、そういうものがあることは、知識として知ってはいましたが、地層を観察したり、ましてやそこから化石を掘るなどというのは、一般の人にはきわめて困難な、大変貴重な経験である…と素朴に思いこんでいたのです。

その事情は大正時代も変わりません。
地質調査といえば、ふつうは露頭を調べて、走向と傾斜をクリノメーターで測って…となるのでしょうが、こと東京に限っては、ひたすら縦穴を掘ってのボーリング調査がメインであり、それが地盤の強弱を知るという本来の目的にも叶う方法でした。

調査は震災直後の大正12(1923)年10月から始まり、昭和3(1928)年まで続きました。
土竜隊のスタッフは、総責任者である地質調査所長の井上禧之助をはじめ、復興局の清野信雄(東京調査主担当)、六角平吉(横浜調査主担当)以下総勢19名(途中スタッフの入れ替わりがあったので、19名全員が同時に在籍したわけではありません)。

調査の基本方針は、該当地域に500m四方のメッシュをかぶせ、その交点を掘削するというもので、目標地点に家が立っていたりして、思うように調査ができなかった箇所も少なからずあったものの、結果的に東京で500、横浜でも297本の縦穴を掘り抜きました。

掘った深さは〆て7万2千486尺。メートルでいえば約2万2千メートルですから、東京スカイツリー34基分の深さを掘った計算になります。

本当は、本格的な地質調査のためにはもっと掘りたかったのですが、「

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