明治日本のアマチュア天文家…日本天文学会草創のころ(2)
2010-12-27


日本天文学会ができた頃の、会の雰囲気をもう少し見ておきます。
「天文月報」第1巻第8号(明治41年11月)には、この年(1908)開かれた第1回定会の広告が出ています。
 
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(出典:[URL] よりスナップショット)

会場は、当時東京天文台があった麻布飯倉近くの聖安得烈館(セントアンドレー館)。
東京タワーのそばに今も残る聖アンデレ教会のことでしょうが、またずいぶんとハイカラな場所で行ったものです。

会の後には、東京天文台の見学も予定されていて、「観覧ニハ二名以内ノ家族ヲ同伴スルコトヲ得」とあります。家族ぐるみでの参加OKというのも、ちょっとバタ臭いというか、開明的な感じです。そして「男子ハ洋服又ハ袴着用ノコト」というドレスコードがしっかりありました。

初代会長の寺尾寿(1855−1923)は、明治10年代フランス留学した人で、学会の立ち上げに際しても、カミーユ・フラマリオンのフランス天文協会(1887年設立)を意識したらしいので(※)、こういうハイカラさはその辺に由来するのでしょう。

(※)『日本の天文学の百年』、p.15

   ★

「天文月報」の同じ号の巻末には、特別会員(今で言う正会員)114名の会費納入状況が載っています。

その中には、早乙女喜佐子、宮内季子、石川千代子、キダー嬢、ホイトメン嬢という、外国人を含む5名の女性らしき名前を認めます。いずれも経歴ははっきりしませんが(※)、こうした会員の属性にも、この会の性格、いわばハイカラさが認められるように思います。

『ビクトリア時代のアマチュア天文家』によると、保守的なイギリスでも、1880年代以降に新設された新しい天文学の団体は、積極的に女性を正会員として受け入れるようになったそうですから、科学の世界に女性が進出する世界的な文脈の中に、日本天文学会の存在も位置づけることができるのではないでしょうか。

(※)宮内については、ひょっとしたら男性かもしれません。下のリンク先を見ると、京大を出た後、満鉄(南満州鉄道)の調査部で満州の旧慣調査に当たった人に同名の人物がおり、この明治41年には、嘱託身分から調査役に昇任しています。あまり天文と関係なさそうな人ですが、実は満鉄と聞いて、私にはピンとくることがあります。この件はまた後ほど。
 
○参考:現場主義のジンパ学:最初の半年は9人だった満鉄調査部
      [URL]


(この項さらに続く)

[天文趣味史]

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