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唐突ですが、名和昆虫博物館に行って来ました。
もともと博物館とは関係なしに、今日は岐阜に行く用事があったのですが、ユカタンビワハゴロモの記事以来、同館のことが俄然気になり出し、時間の都合をつけて足を伸ばすことにしました。その様子は、写真を整理してから記事にすることにします。
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さて↑は、最近すっかりポピュラーになった透明標本。
透明化した筋肉を透かして、紫と青に染色された骨格が鮮明に観察できます。
ブームの先駆けである冨田伊織氏(
[URL])をはじめ、最近は手がける業者も増え、ネット等で手軽に購入できるようになりました。東急ハンズの店頭でも、いろいろな人が手にとっている姿を見かけます。
しかしこの「ブーム」を前に、私の心は少々複雑です。
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昆虫の場合で考えてみます。
たとえば美しい蝶の標本でも、ラベルのついた標本である限り、あまり心は波立ちません。「何といっても、これは学術的に価値のある標本なのだから…」と、自分自身を納得させることができるからです。仮に自分の行為が学術的営為とは無縁だとしてもです。
しかし、モルフォ蝶の羽を敷き詰めた、お土産用の額となるとどうでしょう。
自分でも論理の一貫しない歪んだ意見だと思いますが、モルフォ蝶の額になると、無益な殺生という思いが前面に出て、ちょっと受け入れることができません。
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透明標本も、学術標本的相貌を保っているうちはよいのです。「これは教材なんだ。骨格の構造、ひいては生物の精妙さを考えるには、恰好の素材じゃないか」と涼しい顔をしていられるからです。
しかし、「ちょっと変わったインテリアにどうぞ」みたいな形で販売されているのを見ると、モルフォ蝶の額が連想されて、あまりいい気持ちはしません。なんだか罰当たりな気がします。
そしてその責め言葉は、ただちに自分自身に還ってきます。「君の大好きな“理科室趣味”も同じことだね」と。現に私の周りには生物の死体がいくつも並び、私はそれらを研究しているわけでも何でもなく、単に面白がっているに過ぎないので、まさに同罪です。
罪障感から逃れるために「供養碑」を立てたくなるのは、きっとこんな精神状態のときでしょう。供養碑を建てたところで、それによって救われるのは、当の相手ではなく、自分自身に他なりませんが。
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