悲しみよこんにちは

コメント(全4件)
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S.U ― 2013-06-09 06:01
悲哀の中に居られながら悲哀を客観的に分析される魂胆はただならぬことと存じます。でも、自分の心をコントロールすることが難しいと思う時は、こうしていろいろと策を探してみるものですね。

 なるほど言われてみれば、他者の悲哀を見た時に抱く、同情感、連帯感は、社会の存続のために有利に働くのでしょうね。「情け知らず」の社会は遠からず滅びるべきでありましょうから、それは当然であるかもしれません。

 それに加えて、人はさらにその悲哀に「美」を見いだします。これはなぜでしょうか。不幸自体はそう美しいはずはないのですが、悲しい物語や音楽は美しいものです。人の悲哀に同情し連帯し、それで安心を得て心が浄化されることは、演歌や浪曲の効用の示すところですが、悲哀は、単に他人の悲哀の姿が美しいのではなく、自分の不幸ですらしばしば美しく、悲恋の歌や不幸な運命に弄ばれる情話演劇は、そのような悲哀を身に沁みて知る人にこそ最高に美しいものであろうと思います。

 私にはこれの究明は困難ですが、この美的感覚は人間の何らかの最高レベルの精神作用に関係していて、それを自ら崇高なものと認めることによって人類が立ちゆくもの何かがあるのだと思います。
玉青 ― 2013-06-09 15:58
悲しみは時に崇高な感情と結びつきますね。
たとえば「慈悲」という言葉。
あの場合の「悲」は、他の苦しみを取り除きたいと願う心を言うのだそうです。
つまり、「悲」という文字は、実は本人の嘆きのみならず、その苦しみを救いたいと願う周囲の心をも包摂しており、いわば「共苦」の心を指すようです。
それは本来、誰もが持っている心なのでしょうが、それが外部に投影され、理想化されると、悲母観音とか、ピエタとか、崇高な宗教的表現を生むことにもなるのでしょう。あるいはさらに一歩進めると、魂の救済を説く宗教そのものが、「悲」の心に端を発しているのかもしれません。
蛍以下 ― 2013-06-09 17:02
あらゆる人間が平等に共有できる感情は、究極的には悲しみだけなんだろうと思います。
何かを獲得すると喜びが生まれますが、獲得し、勝利し続けていくことは不可能ですからそれも一時のことです。
生きていく以上、喪失と敗北しか最終的に残されていないのだから、まったくとんでもない話です。「でも事実だから仕方ない、美に昇華してやろう」といった感じなのではないでしょうか。
玉青 ― 2013-06-10 20:06
人間誰しも、いつかは自らの有限性を自覚しないわけにはいきません。
端的に言えば「死」。
それは寂しく、悲しい事実には違いありませんが、これぞ万人に共通する真理であり、相互理解のベースともなりうるものでしょう。
この真理を前に、人はいろいろな行動を取りえますが、個人的には、それが永遠や無限への憧れを生み、限りある人生を意味有らしめるための努力の基となってほしいです。

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