2011-09-19
また、無量光寺で暮らしていたころ、彼の精神生活において重要な位置を占めたのが、当時まだ中学生(今なら高校生)だった年若い友人の存在で、足穂は彼と非ユークリッド幾何学やら三体問題やらを語らって、心を慰めました。まあ、実際には、この天才肌の中学生の方が、足穂よりも一層進んだ数学趣味を持っており、足穂の方が少々受け太刀になっていた気配もあります。この友人はやがて肺を病んで帰らぬ客となりましたが、彼の思い出は、その後「菟(うさぎ)」という短編にまとめられました(作中では、彼は少女として描かれています)。
(本堂から山門をふり返る。左手が庫裏。右手は今も続く窯場。)
(庫裏。足穂当時と同じ建物かどうかは不明。)
足穂の第2期明石時代は、外面的にはどうしようもない、酒びたりで、その日暮らしの、野放図な生活でしたが、これら浮世離れのした人間模様の中で、足穂が本格的な天文趣味にのめりこんでいったのは見逃せません。小川住職夫人・繁子に星座の手ほどきをすることに始まり、お手製の天球儀を作ったり、小形望遠鏡を買いこんで物干し場で筒先を振り回したり、最新の宇宙論を読みふけったり…。
彼がイメージ先行の宇宙的郷愁の徒で終わらなかったのは、この時代の経験が下地になっているからで、彼の作家的成長にとっては重要な時代だったと言えます。
(この項おわり。とりあえずこれで明石を後にして、神戸へと引き返します。)
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