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今週は公私ともに(公というのは食べるための仕事のことです)、なかなか忙しく、あまり記事が書けませんでした。ようやく一段落してホッとしていますが、今度はまた腰が痛くなり、これは暫くおとなしくしていろ、という天意なのでしょう。
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今日の朝日新聞の土曜版(be on Saturday)は、宮澤賢治の「星めぐりの歌」の特集でした。「あかいめだまのさそり…」で始まる、賢治が作詞・作曲した名高い星の歌。
■YouTubeにアップされている「星めぐりの歌」の例
[URL]
記事は、地元・岩手での取材を絡めて、この歌の誕生の背景を探っています(筆者は藤生京子氏。以下< >内は記事の引用)。
取材を受けられた方の年齢に注目すると、81歳、69歳、76歳、74歳…とあって、81歳の方にしろ賢治の直接の記憶はないでしょうから、賢治も遠い人になったことを改めて感じます。
で、今回の記事の流れは、そうした人々の記憶の中で、賢治の神格化が着実に進んでいることを述べる一方で、この歌には別の顔もあるよ…というのが眼目になっています。
<賢治を語らせると、控えめな人々の口調が、少しずつ、冗舌になってゆく。ただ、その歌曲の代表作に対して、最近は少し違う見方も現われている。>
それはソプラノ歌手の藍川由美さんの説で、「星めぐりの歌」の旋律は、大正時代のヒット曲「酒場の唄」(松井須磨子主演「カルメン」の劇中歌)に一部酷似していることを指摘したものです。
<「賢治が『カルメン』を劇場で見たかどうかは不明ですが、当時の流行歌の広がりは爆発的でした。『酒場の唄』に自作の詞をのせて口ずさんだと考えるのが、普通ではないでしょうか」と藍川さん。>
記事によれば、数年前にこの説が発表された時、それに怒りを覚えた賢治ファンが少なからずいたらしい。ファナティックな賢治ファンの特質を如実に示すエピソードです。ファンにとっては、何か「我が神、賢治」が冒涜されたように感じたのかもしれません。
人間には誰しも、清い部分と醜い部分、あるいは高貴な部分と下らない部分があって、もちろん賢治もその例外ではないはずです。賢治を神として崇める人は、たぶん自らの清い部分を賢治に投影しているのでしょうけれど―そしてそのこと自体別に悪くはありませんが―ただ、そうした自らの心に余りにも無自覚的な人は、ひょっとして己の悪にも気づかないのではないでしょうか。
自分の内なる聖性と魔性を共に自覚すること―人はそれによって初めて賢治の物語を「自らの物語」として読めるのだと思います。
話が脱線しました、この辺は朝日の記事とはまったく関係ない個人的感想です。まあ、「カルメン」云々の話は、単に微笑ましいエピソードに過ぎないので、こんな風に拳を突き上げるのは、滑稽かもしれませんが、酒の勢いもあって、ちょっと強く出てみました。
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